疾風(はやて)日本最強戦闘機とスバルインプレッサの関係

人気自動車メーカー、スバルの昔話

今回は太平洋戦争当時、日本陸軍の最強戦闘機と言われた疾風(はやて)のプラモデル紹介なんじゃが、実機の事を調べてみた。

なんとそれには皆さんご存知の自動車メーカー、スバルが関係している。

スバルの本社は東京渋谷区にあり事業内容は自動車・航空機の製造・整備

出典:ウィキペディア スバル本社

資本金は1,537億9,500万円 売上高は2015年3月期で2兆8,779億円、従業員数3万4,200人(2019年3月)という大企業じゃ。

出典:スバル・インプレッサ WRX STi

スバルのお家芸は低重心の水平対向エンジンと4WD技術

レガシーインプレッサレボーグなど個性的な人気車種を生み出してきた。

そんなスバルの歴史をたどってみよう。

自動車を作る前はスクーターも作っていたんじゃ。日本が太平洋戦争で負けた後、陸上爆撃機「銀河」の尾輪を使って1947年(昭和22年)にラビット・スクーターを発売した。これが大ヒットしモデルチェンジを経て1968年(昭和43年)まで販売される。

出典:ウィキペディア 富士重工 ラビットスクーター

この頃、ひろしは小学生だったがラビットで通勤していた先生を覚えている、その他にもお坊さんとか良く乗ってた。国道さえ未舗装が多かった時代じゃが丈夫だったんじゃ。

その後、スバルは自動車メーカーになっていく。

1958年(昭和33年)にはモノコックボディー(シャーシーが無く車体そのもので強度を維持するので軽く作れる)、空冷2サイクル2気筒エンジンを後部に積んだスバル360を発売する。これは大人4人が乗れ、乗り心地も良く大ヒットした。

出典:ウィキペディア スバル360

スバルのルーツは中島飛行機

独創的な技術を持つスバルだが、太平洋戦争中は、なんと戦闘機を作っていたんじゃ。

当時の戦闘機で有名なのは、三菱重工業がつくった1,000馬力級の海軍艦上戦闘機、零戦だが、

出典:ウィキペディア 三菱 海軍零式艦上戦闘機

スバルも中島飛行機という社名で数々の戦闘機を生み出した。

中島飛行機は、太平洋戦争敗戦まで陸海軍の需要に応え、軍用機や航空用エンジン開発・製造に取り組んだメーカーで三菱重工業、川崎航空機と並ぶ、日本最大規模の航空機製造会社だったんじゃ。

出典:ウィキペディア 中島飛行機 陸軍一式戦闘機 隼

なんといっても有名なのは一式戦闘機 隼(はやぶさ)

初飛行は1938年(昭和13年)で、零戦と共に太平洋戦争(大東亜戦争)における主力戦闘機として活躍した。

総生産機数は5,700機で零戦に次いで多く、陸軍では最も多く生産された。

最大速度は550Km/hほどだが軽量でプロペラの直径が小さいため加速に優れ、連合軍から低速時に不用意に近づくのは危険と言われたんじゃ。

出典:ウィキペディア 中島飛行機 陸軍一式戦闘機 隼

その加速性は2,000馬力級のエンジンを搭載したアメリカ軍戦闘機、P-47サンダーボルトにも劣らず、低空においてP-47が急加速した一式戦に引き離されたという報告もある。

零戦もだが隼も敵機の後方について攻撃する巴戦に優れ、優秀なパイロットと相まって大戦初期には無類の強さを発揮した。

中島飛行機はその後も、世界の戦闘機の主流になりつつあった一撃離脱戦法(優位な位置から重火器で致命傷を与え高速で離脱する戦法)を具体化した二式局地戦闘機、鍾馗(しょうき)

出典:ウィキペディア 陸軍二式戦闘機 鍾馗

出典:ウィキペディア 陸軍二式戦闘機 鍾馗

太平洋戦争終盤になって集大成の2,000馬力級、重戦闘機の四式戦闘機 疾風(はやて)を生み出した。

大東亜戦争決戦機 疾風

日本の戦闘機は太平洋戦争初期こそ優れた設計と熟練パイロットで緒戦を優勢に進めたが、いかんせん連合国側の反撃に劣勢となっていく。

特に1,000馬力級の発動機しかない日本に対し、アメリカは2,000馬力級の重戦闘機を多数繰り出してきた。

1944年(昭和19年)、中島飛行機はアメリカの2,000馬力級戦闘機に対抗する4式戦闘機 疾風を開発し陸軍に正式採用された。

これからは大滝製作所のプラモデルで詳細をお話しよう。

この箱絵が四式戦闘機 疾風じゃ。

隼に似ているが大型で伸びやかなスタイルになっている。垂直尾翼が水平尾翼より後方に伸びたスタイルは二式戦闘機 鍾馗ゆずりで機銃の射撃時に機体の安定が良く採用された。

オーソドックスなスタイルだが中島飛行機の戦闘機の長所を引き継いだわけじゃ。

大滝製作所は創業明治43年という歴史を持つ(当時からプラモデルが有った訳では無い)。

大滝竜太郎製作所→昭和29年(株)東洋模型→昭和31年(有)大滝製作所と変遇していったが、残念ながら1986年に廃業している。

昔の少年雑誌には大滝のプラモデルの広告がよくあったんじゃ、懐かしい。

箱の横に1/48スケールの軍用機シリーズが並び有名な機体が揃っている。

零戦が一番人気かな、アメリカのP51ムスタングなど好敵手と並べたい。

鍾馗の開発時に参考としたドイツのメッサーシュミット、そしてフォッケウルフやイギリスのスピットファイアも並ぶ。

第二次世界大戦では各国がレシプロエンジンの戦闘機を競い合ったんじゃ。

疾風の解説があり「大東亜決戦機」「日本の最優秀戦闘機」との記述がある。

バランスがとれた素晴らしいデザイン、昭和19年フィリピンでの塗装じゃ。

昭和20年東京防空の塗装、白帯の日の丸は本土防空戦の印

敗色濃い状態で圧倒的な物量のアメリカ軍に立ち向かったんじゃ。

箱を開けると鮮やかな日の丸のデカール、防空戦の白帯も選べる。

塗装の参考になるシートが入っている。これを飾っても楽しめた。

プロペラや増槽燃料タンク、脚部、計器盤、右下はパイロット。

大出力の証、4枚プロペラが頼もしい。

出典:ウィキペディア 疾風

1970年、カリフォルニア州オンタリオ国際空港における四式戦一型甲(キ84-I甲)

計器盤や床面、陸軍は被弾した時の燃料漏れ対策や防弾鋼板を積極的に取り入れた。

海軍は海上での航続距離や軽量化のために防弾鋼板は積極的ではなかった。

高出力エンジンの開発に手間取り機体に余裕が無かったんじゃ。

隼に似た機体側面、鍾馗で学んだ尾翼の配置がわかる。

当時、欧米に水を開けられたエンジン技術の挽回を計った小型高出力の誉(ほまれ)を搭載。

誉は1,800馬力を発生し高度6,000mで最高速度660Km/hを記録した。

武装は陸軍単発単座戦闘機としては初めて、計画段階から主翼に20mm機関砲2門を装備

胴体には12.7mm機関砲×2門

アメリカは日本の最優秀戦闘機と賞賛した。

出典:ウィキペディア 米軍にテストされる疾風

アメリカ軍は戦後の昭和21年4月2日から5月10日にかけて、ペンシルベニア州のミドルタウン航空兵站部で疾風の性能テストを行った。

武装を外して軽量し100オクタン/140グレードのガソリンとアメリカ製点火プラグを使用した疾風は高度6,096mで最高速度687Km/hを記録し、アメリカ軍のP-51マスタングP47Dサンダーボルトよりわずかに勝っていた。

キャノピーは水滴型で視界がよく最新型の戦闘機を感じさせる。

前面は70 mm厚の防弾ガラス。

出典:ウィキペディア 疾風 第58振武隊

第58振武隊(髑髏隊)の四式戦闘機「疾風」、尾翼の釜茹髑髏のマークが特徴

疾風は中国戦線において実戦部隊の操縦者からも高い評価を受けた。

本土防空戦でも奮闘、なかでも加藤隼戦闘隊中隊長として勇名をはせた黒江保彦少佐が四式戦で3機のB-29撃墜を記録している。最後は特攻機としても使用された。

何とも悲しい事じゃのう。

高性能な疾風だが低いオクタン価の燃料や、低品質の潤滑油などで本来の性能を発揮することなく消耗していったのが悔やまれる。総生産機数は約3,400機だった。

今回はスバルの前身、中島飛行機の疾風でした。

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